ネパールでわしも考えた 

以前「インドでわしも考えた」というタイトルの軽めの本がありましたが、この本も今回のお題も、堀田善衛の「インドで考えたこと」が元ネタです。堀田先生は学生時代の私にとっての"知の巨人"でありました。

当時の私の"知の巨人"には、丸山眞男、それから「照葉樹林文化論」の中尾佐助もその一人でした。ここ15年ほど一緒に山岳ガイドをしているM兄は岡大生物科学研の頃なのか、中尾先生の講義を直に聞いたことがあるそうで、なんでもその講義よりも著作『栽培植物と農耕の起源』(貴重な岩波1969年の第6刷を拝借したままです・・・感謝)の方が10倍は面白いと、好悪是非定かならぬことを言っていましたな。この照葉樹林文化論からは、ナラ林文化、稲作の渡来と鉄の生産が絡みあった、『もののけ姫』の背景のような日本文化論への展開(中尾先生の理論ではありません)があって、これを語ると数時間かかるので誰かに(災難ですな)気が向いたときに語らせて頂くとして・・・

前置きが長くなってしまいました。

今回は楽しいネパール報告の前の、辛口報告です。



何かというと、『観光登山という良く出来たビジネスモデルの中で、就学年齢にある子供の人権が危ういかもしれないということに、我々登山客が意識を持ったほうが良い。』 ということ。

ただし、論点は"登山"では無くて"社会"の問題であって、『観光登山』というビジネスモデルの是非論ではありません。



確かに『観光登山』についても、ハイキャンプまで食堂とキッチンとテントをシェルパメンバーが運び上げるという登山形態には本当にビックリしました。(今回のメラピークはルート状況から特殊な山なのかもしれませんが) 私の経験上、6500m級の未踏峰や8000m峰への遠征では、こんなことは考えられませんでした・・・

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外国人登山客が完全装備でゼ〜ゼ〜言いながら登るすぐ傍を、若いポーターたちが重い荷を背負いつつスニーカーで登ってゆく。時にはカレのベースキャンプからハイキャンプまで往復するとのこと。

完全装備の登山客と、スニーカーのポーター達・・・

私としては、心ならぬ茶番劇のような、恥ずかしいような気持ちを忘れることが終始出来ませんでしたが、シェルパもポーターも生活のために働いているのだから、『自分の考える登山は諦めて、今回は彼らの生活の糧になろう・・・』と自分に言い聞かせる必要がありました。

登山のタクティクスも全てシェルパ任せで、それはそれで『観光登山』としては良く出来た仕組みなのかもしれません。



しかし、今回少しだけ報告しておきたいのは、そうしたポーター達の中に、稀に就学年齢の子供たちがいるらしいということです(我々の隊ではありません)。

現在のネパール観光登山では、サーダー(シェルパのボス)がトレッキングツアー会社から仕事を請負い、自分の率いるグループで仕事をこなすようになっていますから、サーダーとしては出来るだけ人件費などの経費を削った方が利益になります。その結果、人件費の安い若年層を雇用することになるのでしょう。

就学年齢(日本では満15歳での3月31日まで)や児童労働の基準は、国や文化によって様々なルールがあるでしょうから、それを一概に私の感覚で否定することは出来ませんが、少なくとも私が関係する登山、トレッキングにおいては、今後、一応のチェック(今回のような場合ならトレッキングツアー会社にチェックを求めるという方法で)をした方が良いし、そういう現状に乗っかって登山をしているということに、私たちは無知でいるべきではない、と考えています。

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実は、今回出会った他隊のポーターに14歳の少年が数名混じっており、これは当人やトレッキング会社が意識していてもいなくても、国際的な常識では児童虐待となるでしょう。

教育を受けられない子供たちやその両親達には、そういう問題意識はありません。生きるのは辛いことと思うだけでしょう。そこから社会の階層が生まれ、貧富の差が生まれ、それが社会的なフラストレーションを増大し、近年のネパールがそうであったように多くの命を奪う事態に発展することもあります。

我々登山客は、無頓着に山に登るだけでなく、自分の登山がそういう悲劇につながっているかも知れないという意識を、ほんの少しだけでも持っていたいと、私は思いました。

ネパールで登山をすることは素晴らしいことですが、そこで関わる人達や子供たちの人権について、頭の中だけでも良いから、少しだけ心配りをしてみることも、決して自虐趣味ではないと思います。

『観光登山』は私的自由な行為であるし、そこには楽しさも達成感も確かにあると思いますが、その中に潜んでいる悲劇の種、つまりポーターとして働く子供たちの人権や未来について、外国人のおせっかいであろうとも、旅行者の偽善的同情であろうとも、見て見ぬ振りをせずに、現地のトレッキング会社に対して積極的に現実に具体的に発言したいと思うのです。



次からはもっと楽しい話にするよー

さらば!ヒマラヤ 

メラピークの山塊に背を向けると、上空は青黒く晴れ渡り、一歩踏み出すごとに家に近づいていることが嬉しい。今回の登山に際して、お世話になりっぱなしの人達を思い出す。

高所キャンプの岩角を越えると、突然眼前の風景がひらけた。チョーオユー、この山の向こうはもうチベット高原だ。ローツェの南璧は黒々として5000mの岩と氷の壁。最高峰エベレスト。今年2月にようやく冬期初登頂を許した難峰マカルー。そしてはるか東の方角にはカンチェンジュンガが見渡せる。世界の高峰群のうち、5つの8000m峰を一度に眺めていることになる。

巨大な懸垂氷河が輝き、アイゼンを蹴りこむ足元から氷の破片が転がり落ちる、氷塔が軋む、おぉ・・・おぉ・・・さすがは・・・山。

私は無意識に、仲間が登っている山頂を振り返った。
『みんな!そこからこれ↓見えてるかー!』

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思うに、今日から私は、ヒマラヤの高峰から降りることになるだろう。

眼前の巨峰群にお別れを言う。

『さよなら、エベレスト。さよなら、マカルー。さよなら、カンチェ。ありがとう。ありがとう。ありがとう!』

西の谷へと雪が流れ、山はただひっそりと言葉も無い・・・が、私には山が語りかけてくれるような錯覚があった。

『これだけの景色を自分の目で見たのだから、もう満足して良いではないの?』・・・その昔、人類初めての8000m峰アンナプルナに初登頂したエルゾーグは、「山を降りよう。人生にはもう一つのアンナプルナがある。」と言った・・・

『私のは、失敗ばかりの人生です。』・・・カンジロバヒマール遠征やガッシャブルム主峰西陵初登の仲間の顔が目に浮かぶ・・・

『失敗ばかりでも、自分に嘘はついてこなかったろ?』

『そんな人生なら、良いですね・・・』

私にそんな自信は無いが、多くの過去の夢は、たとえそれが叶わなかったものであろうとも、嘘となってしまうものではない。

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ニュージーランド時代の同僚が、サザンアルプスへもう一度やってこいと誘ってくれている。
日本の仕事仲間は、私のためにモンゴル・ホロンバイル草原への旅を企画してくれている。
カムチャッカのウスリー川流域のタイガを踏査することは、私にとって年来の特別な計画だ。

それらはどれも過去の人生が今の私に与えてくれる夢であり、不自然なものは一つもない。

私には、自らの身体でヒマラヤの山脈を越える力が無かったが、山から苦労して学んだことも何かある。

その何かを道連れに、この目の前の巨峰を越えたとき、山の向こうにはいったい何があるのだろう?

死刑制度考察メモ −その2− 

Tod_und_Leben

その1以降、暇暇に考えているが、出来る限り予断を避けておこうと、この問題に関する著作や評論には目を通さないことにしている。「本を読むことは、人にものを考えてもらうことと同じ。」と言われるが、それほど厳密な意味でなく、単に自分の考えに集中したいからだ。


【余談1】

しかし、ある偶然のきっかけがあって、バダンテール演説だけは全文を読んでみた。フランス左派の活動史を踏まえて自論の出自を根拠付けしつつ、死刑制度の意味の少なさ(法的社会的合理性の欠如)という観点から論理を展開し、結論的に死刑制度の存廃の選択は、『社会科学的選択』というのは論外、『政治的選択』でありつつも、根源的には、個々の、社会の、国家の『道徳的選択』にかかっている。だからこそ「完全にはっきりと態度を明らかに」するべき問題だと訴えている。

「明晰な精神で最後まで考えをすすめたいなら、死刑の維持か廃止かの選択は、結局、社会にとっても、また、私たちの一人一人にとっても、道徳的選択だということがわかります。」

「何かに完全に責任を負うべき人間は存在せず、どんな司法も絶対的に無過誤にはなれないゆえに、死刑は道徳的に受け入れられないのです。」

(1981年9月17日 フランス国民議会 死刑廃止法案の審議における法務大臣ロベール・バダンテールの演説より)


この結論には、法曹であり人間である個人の深い知恵があると思う。バダンテールの演説を読むと、人生の経験を経た人の知恵、年齢を重ねることの意味が分かるような気がする。70歳には70歳にしか言えないことがあるはずだ。

年齢を重ねなければ分からないこと、経験を積まなければ言えないこと、これは国家にも当てはまるのかもしれない。

というのは、この演説のあとに死刑制度が廃止されたフランスにおいて、法的社会的合理性とは別次元に残された問題、つまり、被害者の『感情的回復』の問題は、社会全体の歴史的経緯からくる包摂性に帰属してくると思うからだ。


【余談2】

もうひとつバダンテールの論旨の中で新鮮だったのは次の部分。

「死刑にこだわる動機の奥底には、しばしば告白されないままの、排除への誘惑があるものだというのが真実です。多くの人にとって耐えられないように思われるのは、刑務所に入った犯罪者の生命よりも、犯罪者がいつの日か再び罪を犯すという恐れなのです。そして、この点に関しての唯一の保証は用心のために犯罪者を死刑に処することだと多くの人が考えているのです。かくして、この考えでは、司法は復讐のためというよりも慎重さのために殺すのだということになります。」

(1981年9月17日 フランス国民議会 死刑廃止法案の審議における法務大臣ロベール・バダンテールの演説より)


これは犯罪の非当事者が死刑制度を肯定する場合の有力な動機の一例を言い当てていると思う。

同時に、死刑制度を否定する場合の有力な動機の一例と考えられる『冤罪被害を排除するための死刑廃止』という意見も、これと同じ『用心のための』廃止なのだろう。ただし上記の『用心のための死刑』よりは相当性があると思える。

考えみると、その1の【思考上の制約】(2)冤罪を理由とすることの排除はこうした論点のズレ(事実から原則を帰納する⇔既成の原則へと事実解釈をあわせてゆく)に対する『用心のための』排除だ。しかしこれまた相当性を認めても良いだろう。



閑話休題・・・

【死刑制度の目的と課題を考える】

(1)近代死刑制度の背景と傾向

「やられたらやり返す」、「苦痛を与えたものには同じ苦痛を」、こんな応報感情は人間に自然に備わっていて当然のものだ。非当事者としてこんな論文を書いていても、もし当事者になってしまった時には「やり返す」ことを第一に考える。矛盾するようだが、これは『罪』と『罰』とが矛盾したまま共存するということがある(論旨後述)のだから仕方がない。

人間としての自然な応報感情という存在を認識しつつ、近代司法は『自力救済』を禁止している。これは・・・

市民感情=自然な応報感情や復讐の権利・義務

『気持ちは分かるが、別のものとして割り切ろう。』

市民(社会的)意思≒国家の意思=法的・制度的合理性


という具合に、政治的選択をしている結果であって、これは社会的意思として貫徹されているといえる。

では『死刑制度』についてはどうだろうか?最近の判例や死刑執行命令の急増を見ると、司法のポピュリズム化、つまり犯罪当事者、非当事者を問わず噴出する応報感情への司法側からの歩み寄りが感じられることもある。

市民感情=応報感情や排除への誘惑(前述)

『気持ちは分かるし、正義を共有する意識は重要だ。死刑にしよう。』

市民(社会的)意思≒国家の意思=法的・制度的合理性


もしもこのように『正義を共有する』という思い込みで、社会的カタルシスを求める傾向があるとすれば、それは何故だろうか?


(2)『罪』と『罰』との矛盾共存

道徳や規範、国家や宗教上のルールなど、
ある時点での価値基準を通して、
それに反する行為を悪と定義する
・・・これは『罪』というものを定義する行為である。

人間の自然な応報感情、
「目には目を」、復讐、
悪いやつを懲らしめたい気持ち、
個人的にでも罰したい気持ち
・・・これは『罰』の心理である。この心理現象は、見るもの聞くものによってコロコロ変わることがある。

この『罪』と『罰』とが連動することを求める場合、つまり、社会のルール(罪)は人間の感情(罰)に寄り添うべきである、とされた場合、それが満足に運用されなければ当然に社会的フラストレーションが蓄積する。

『罪』社会のルール

│この方向に近づけるべきである!

『罰』人間の感情


その結果、(1)のような社会的カタルシスを求める傾向が強勢となり、マスコミはそれを煽り、司法のポピュリズム化が進行する。

しかし、『罪』と『罰』とを連動させることが必要なのだろうか?或いは可能なのだろうか?

思うに、それは可能ではないし、必要でもない。

『罪』と『罰』とは前述のとおりその出自が根本的に違うから、ハムラビ法典でもない限り実質的連動は可能ではない。

そこで近代社会は、『罪』と『罰』とを区別し、『罰』という感情よりも、『罪』というルールに目を向けることを選択したのである。

『罪』社会のルール←近代社会はこちらを選択

×区別するべきである!

『罰』人間の感情


つまりそれは前述のバダンテール演説にはこう表現されている。

「犠牲者の親族や近親者が罪人の死を望むことは傷ついた人間の自然な反応であり、私はそれを理解いたしますし、それを考えもいたします。しかし、それは人間の自然な反応なのです。一方、司法のあらゆる歴史的進歩は、個人的報復を乗り越えることでありました。まず同等報復刑法を拒否するのでなければ、どうして個人的報復を乗り越えられるでありましょうか。」

(1981年9月17日 フランス国民議会 死刑廃止法案の審議における法務大臣ロベール・バダンテールの演説より)



(3)『罪』と死刑制度の課題

このように、『罪』という社会ルール(刑法等)によって犯罪の内容を判断し、その結果の『刑罰』によって市民の意思を表明し、国家の意思を貫徹することを目的とするならば、その『刑罰』は死刑でなくてもこと足りるのではないかという判断が、現在死刑制度を廃止している各国でなされている。

しかしながらこの判断は、最終的には、政治的選択ではなく、道徳的選択にゆだねられる。それは恐ろしい選択でもある。

「・・・絞首台まではあと四十ヤードくらいだった。わたしは自分の目の前を進んで行く囚人の、茶色い背中の素肌をみつめていた。腕を縛られているので歩きかたはぎごちないが、よろけもせず、あの、インド人特有の、決して膝をまっすぐ伸ばさない足どりで跳ねるように進んで行く。ひと足ごとに、筋肉がきれいに動き、一掴みの頭髪が踊り、濡れた小石の上に彼の足跡がついた。そして一度、衛兵に両肩をつかまれているというのに、彼は途中の水たまりをかるく脇へよけたのだ。」

「その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたしはまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった。」

ジョージ・オーウェル『絞首刑』(小野寺健訳)


この道徳的選択が、我々日本人にとってどのような課題であり、いかなる意味を持つかについて、この考察メモ−その3−【道徳的選択と"日本人"のポテンシャル】で考えてみたいと思う。


(4)『罰』、取り残された心の課題

近代市民社会が『罰』という感情よりも『罪』というルールに目を向けることを選択した結果、犯罪当事者、特に犠牲者の遺族における感情的回復の選択肢が少なくなった。自分でやり返してはいけないのだ。

その上に死刑制度が廃止されれば、国家が復讐してくれるという手段も諦めなければならない。生き続けられないくらいの絶望というものがあるならば、多くの人にとって想像でしかないのは幸いだが、それは犯罪被害者、親族の心に焼き付けられるものではないだろうか。死刑制度廃止という道徳的選択が、同時に恐ろしい選択でもあるというのはこういう意味だ。

個人的、組織的を問わず、傷ついた心を回復する方法や機能が、今の日本の社会に残っているだろうか?

ここで問題は『国家』ではなく、『社会』である。さらに言うならば、問題は『人』なのだ。

現代日本社会に残存するかもしれない遺産、つまり社会的包摂性というものについては、これなくして死刑制度を廃止することに大きなリスクがあると考えるべきだろう。社会的フラストレーションはとんでもないはけ口を求める可能性があるからだ。

同時に、この社会的包摂性を維持できたり、再構築できるならば、それは死刑制度の是非論議を超える意義を持つことになるだろう。



社会的包摂性とはなんだろう?『思いやり』みたいなものか?テネシー・ウィリアムズは、「あなたにとって、幸せとは何ですか?」という問いに対して、「ある時、人が人に感じるやさしさ」と答えたが・・・


冬壁の一日 

南光河原駐車場で車を降りた時点では、まだどのルートを登るか決めていない。元谷まで登って北壁全体のコンディションを見てからルートを決めることにしているので、とにかくクライミングの装備は全て持って行くはずが・・・ここで大事なギアを忘れたのは事実である・・・

元谷から北壁を眺める・・・

北壁西側のフェース
↑北壁西側のフェース

天候はまずまず、南岸低気圧が雪を降らせて去った後、弱い冬型の気圧配置になっているはず。ということは午後にはガスが上がってきて風も若干強くなる。

北を向いたそれぞれの谷筋にはたっぷりと新雪が積もっている。ここで考えることは主に2つだ。第1に壁がガッチリと凍っているかどうか?特に別山北壁や大屏風は、岩が緩んでしまう位に気温の高い時に登るのは危険だが、今朝は良いコンディションに見える。第2に壁の基部までのアプローチルートに新雪雪崩のリスクがあるかどうか?今日は規模は小さいながらもリスクがあるように感じる。

パートナーのTとしばらく相談した結果、別山バットレス北壁の中央稜に決める。ただしルートの開始地点までのアプローチは、普通は元谷小屋奥の尾根の東側を登るのだが、今日はアプローチ上部で弥山尾根付近からの雪崩もありえるので、尾根通しを登ることにした。つまり元谷小屋から中央稜ルート開始地点を目指して尾根上をラッセルすることになる。

北壁西側のフェースと別山バットレス
↑別山バットレス北壁の中央稜ルート(赤のライン)

案の定、ラッセルは厳しい。腰までの積雪の中、急な斜面では胸までのラッセルをTと2人で交替しながら進む。約2時間のアルバイトで別山バットレスの基部に到着。改めて壁の状況を観察しながら、クライミング装備を身につける。

防寒着に着替えてハーネスを装着。ハーネスのギアラックに確保用のカラビナや制動器を掛けてゆく・・・なんか足りないな・・・オー、ピトン(ハーケン)を全部忘れた!冬壁用に買っておいたアングルピトン(氷雪の詰まった割れ目に打ち込むV字型のハーケン)とナイフブレード(同じく幅の広い割れ目用)各種・・・

ここでルートの状況を必死で思い出して、ピトン無しで行けるかどうか、気持ちの上で確認。ビレイポイント(確保地点)には残置ピトンや残置ボルトがあるはずなので、登ることには問題ない。この場合心配なのは、いざ壁の途中から撤退という時の懸垂下降や自己確保のために、それらのギアが要るかも知れないという懸念だ。

別山バットレスのプロフィール(弥山尾根から)
↑別山バットレスのプロフィール(弥山尾根から)

急な雪璧からルートを登りはじめる。隣の弥山尾根に3人パーティーが取り付いている。我々よりも早い時間にクライミングを始めていたが、最初のピッチをトップが登っているところだ。我々は開始地点から50〜60Mほど登って中央稜のリッジ上に出たが、まだまだ上部までコンティニュアス(お互いにロープで繋がっているがランニングビレイ以外の確保はしない)で登るのでスピードは速い。時間を忘れて中央稜を半分ほど登ったところでしばらく休憩。後続のTを待って、ここからはお互いを確保しながら登ることにする。

別山バットレス北壁中央稜のルート
↑別山バットレス北壁中央稜のルート(赤のライン)

ところどころ際どい部分を乗り越えながら、2ピッチ登って核心部の凹角下部でビレイ。雪が降っているが風はほとんどなく、ノンビリしたクライミングだ。凹角の岩の部分まではアイゼンの前爪を氷雪璧に蹴りこんでのスムーズなクライミング、ただし頼りになるランニングビレイ(中間確保)はあまりない。そんな状況から凹角下に入り込んで初めて埋込みボルトにランニングビレイをとる。浮石を慎重に確認しながら、凹角をまたぐ体勢で登ると、股の間から急なリッジが切れ落ちているのが見える。凹角を突破して確保地点へ。今度はTが登るために確保する。

私はガイドクライミングでも何度もここを登ってるが、Tは今日がこのルートの初クライミング。凹角では少し苦労していたが、さすがにベテランだけに安定して登ってくる。実はここから上部にも、きついオーバーハングと、おっかないナイフリッジが待っている。

天候はまだまだ崩れてはいないが、雪と風が少しづつ強くなってきている。隣の弥山尾根を登っているザイルパーティは、まだ我々よりも100Mくらい下で苦労している。彼らは日没までにルートを登りきることが出来るだろうか・・・

次のピッチのオーバーハングを越えると、雪璧の傾斜がゆるくなり、やがて右上部に別山北壁の最高点が見える。そこまで1ピッチを残してビレイ点を作り、Tを確保。

最高点まで40M、その先は大山の頂上稜線までナイフリッジが続いているが、これがまたいやらしい。特にナイフリッジのクライムダウンには気を遣う。Tがトップで降りる。途中のコル(鞍部)で確保。ここからは再びコンティニュアスクライミングで頂上稜線を目指す。

別山山頂からのリッジ
↑別山山頂から右へリッジが続く

ナイフリッジを15分ほど登って頂上稜線の雪のプラトーに出る。ここで本日のクライミング終了。登ってきたTとガッチリ握手して、早々に装備を片付けて下山を開始する。

風雪がいっそう強くなり、6合目の避難小屋まで下る間に顔半分の眉毛や髭に氷が張り付く。吹雪が痛くて風上に顔を向けることは出来ない。これは冬の大山の稜線では普通のこと。しかし弥山尾根のザイルパーティーはまだ北壁を抜けていないと思われるので心配だ。あと2時間もすれば暗くなってくる。北壁を抜けさえすれば、頂上の避難小屋でビバーク出来るので安全だろう。

5合目の少し上から元谷側に下降。一般ルートを歩いて降りるのが面倒なので、元谷まで一気に滑って降りる。非常に快適。頂上から1時間で元谷に到着。北壁は完全にガスに覆われて、既に近づく者を拒否しているようだ。気がつけば、2人ともクライミングに夢中で昼飯を食べ忘れていた。それに気が付いた途端に腹が減ってきた。




ラインホルト=メスナー(Reinhold Messner/伊) 

『孤独の鳥
一羽の孤独の鳥には 5つの条件がある
第一に 最高点まで飛ぶこと
第二に 嘴を天に向けること
第三に 一つの決まった色をしないこと
第四に 同類を欲しがらないこと
第五に ごくかすかな声で歌うこと』
−サン・ファン・デ・ラ・クルス−

私にとってメスナーという人は2つの大きな印象を与えてくれた登山家です。その最初がラインホルト=メスナーをテレビではじめて見た高校生の時、NHKの『ヒマラヤ』特集みたいな番組でした。覚えているのはメスナーの顔、特にその眼でした。それは何かに取り付かれた人間に特有の、どこまでも澄み切った深みを持つ眼であったので、その人が何者かも分からず印象に残った記憶があります。


《写真:70年代と80年代のメスナー》
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前回の「アルピニスト列伝」に書いたダグ=スコット(Doug=Scott)と比べると、メスナーの山登りは人間にとっての限界を押し上げるような、当時としてはかなり常識やぶりの登り方だったので、最もセンセーショナルでありながら、最も議論の対象となる登山家でもありました。

18歳頃からの東アルプス登攀、1966年に弱冠22歳でグランド・ジョラス北壁(ウォーカー側稜)、1969年にアイガー北壁を当時の世界最短記録で登攀。1974年にも同じアイガーで自身が持つ世界最短登頂記録を更新。ヒマラヤでは、1970年のナンガ・パルバット登頂を初めとして、17年の歳月をかけて1986年に人類史上初となる8000メートル峰全14座完全登頂を成し遂げました。

その間、1975年ガッシャーブルムI峰でハーベラーとともに初のアルパインスタイル、つまり中継キャンプを使わないワンプッシュでの登頂、1978年エベレストで人類初の無酸素アルパインスタイル登頂、2年後の1980年にはエベレストチベット側から無酸素・新ルート・単独登頂、などなど。


《写真:1980年チョモランマ(エベレストチベット側)に無酸素・新ルート・
単独登頂して中国人民解放軍が立てた頂上標識の前にへたりこむメスナー》
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【8000メートル峰14座登頂記録】
1970年 ナンガ・パルバット (8125m)
1972年 マナスル (8156m)
1975年 ガッシャーブルムI峰 (8068m)
1977年 ダウラギリ (8167m)
1978年 エベレスト(8848m)
1978年 ナンガ・パルバット(単独登頂)
1979年 K2 (8611m)
1980年 エベレスト(無酸素単独登頂)
1981年 シシャパンマ (8013m)
1982年 カンチェンジュンガ (8586m)
1982年 ガッシャーブルムII峰 (8035m)
1982年 ブロード・ピーク (8047m)
1983年 チョー・オユー (8201m)
1984年 ガッシャーブルムI峰 (8068m)
1982年 ガッシャーブルムII峰 (8035m)
1985年 アンナプルナ (8091m)
1985年 ダウラギリ (8167m)
1986年 マカルー (8462m)
1986年 ローツェ (8516m)

【その他の登頂(抜粋)】
1966年 グランド・ジョラス(4208m)
1969年 アイガー北壁当時世界最短となる1日半で登頂
1972年 ノシャック (7492m)
1974年 アイガー北壁5年前の記録を上回る10時間で登頂
1974年 アコンカグア (6959m)
1976年 マッキンリー (6194m) 南西壁世界初登頂
1978年 キリマンジャロ (5895m)
1981年 チャムラン (7317m)
1986年 ヴィンソン・マシフ (4897m)
1994年 シヴリン (6543m)

何が凄かったかというと、当時はエベレスト等ヒマラヤの高峰は7000mオーバーくらいから酸素ボンベの助けを借りて呼吸しながら登るのが普通で、その酸素ボンベの補給のためにも極地法(※)で数ヶ月かけて登頂する大遠征が主流でしたが、それを酸素ボンベ無しで、2人だけで、1週間くらいで登ってしまったわけです。メスナーはこの方法を「古くて新しい方法」と説明し、装備を買う資金がなかったし、極限まで荷物を減らしてゆくとこうなったんだと、照れ隠しのようなことを言っています。

※極地法はもともと南極や北極探検に使われた方法で、ヒマラヤ登山では標高5000m付近に大きなベースキャンプを作って、10人前後の登山隊員と高所ポーター(ネパールではシェルパ)が順番にルート開拓、荷揚げ、休養を繰り返しながらルート最前線までの補給路を延ばし、その延びきったところに頂上を持ってくるというやり方です。途中に第1キャンプ、第2キャンプと次々に設営しながら前進していくわけです。そしてようやく最後になって、隊員やシェルパのうちの何人かが登頂する。私がガッシャーブルムI峰(8068m)に行った時も、無酸素・新ルートではありましたが、方法は極地法でした。

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メスナーにおける2つ目の印象は、これもドキュメンタリー番組で見たのですが、魔の山ナンガ・パルバット (8125m)のベースキャンプで泣きながら独白する姿です。

メスナーは1970年にナンガ・パルバットのルパール壁(世界最大級の岩壁)から登頂に挑戦し、登頂後の下降で実弟ギュンターを失う経験をしています。

この時メスナー兄弟は登山隊の先頭に立って岩壁の雪の中で何週間も籠城をしながら登攀を続けましたが、悪天候に阻まれ完登は断念せざるおえない状況になっていました。結局、メスナー兄が最終キャンプから単独での登頂を試みることになった時、弟ギュンターが兄の後を追い、6月27日にルパール壁を完登しています。

しかし、この時彼らの体力は限界に達しており、特に弟ギュンターは兄に追い付くための無理な行動もあって、過度の疲労と高山病に冒されかかっていました。単独登頂のつもりだったためザイルもなく、食料も水も無い彼らは、頂上付近にて数日間天候の回復を待つことになり、その後メスナー兄弟は生死をかけルパール壁とは反対側のディアミール壁から降下することを決意し下山を開始しました。

《写真:ナンガ・パルバットのディアミール壁》
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下山の途中メスナー兄は力尽き倒れ、およそ800mの崖を墜落。この時彼は、自分の体から魂が離脱し抜け出たことを意識し、自分の体が山を転がり落ちて行くところをはっきりと目撃しながら、もう一人の冷静な自分が存在していることに気づいたと言っています。

その後、彼は、最後の力を振り絞り、自分より体力の消耗した弟をなんとしても安全な場所に移動しなくてはと朦朧と起きあがりますが、弟ギュンターは雪崩に呑まれ、帰らぬ人となり、生還したメスナー自身も、凍傷により足の指6本と手の指先数本を失うことになりました。

このときの経験を、龍村仁監督映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第一番」に出演した彼は、映画の中でこのように述懐しています。

「人間は実は2つの違う次元の中を生きている。――この体験が、私の人生の最も重要な体験になったのです。」
「いつも死を意識しているというわけではないのですが、私は「死」こそ生を充実させる最も重要な要素だと考えています。」

「死」そして「生きる」ことへの命題を目の当たりにしなければならない経験だったのでしょう。

その後、「弟の死を克服するために、彼の死を僕の生命の一部であると考えるまでに、何年もの歳月を必要」(「生きた、還った」東京新聞出版局)とした後で、再びナンガ・パルバットへ向かいます。ナンガへの挑戦は数回繰り返されていますが、私が見たドキュメンタリーは敗退した時のもので、フィルムに残るメスナーは号泣しながら「家に帰りたい」と言い、「いままで母親にとても心配ばかりさせてしまった」こと、そのあげくに弟を死なせてしまったことのショックからまだ立ち直れない自分自身に直面していたのでしょう。この敗退についてメスナーは「不安に負けた」と後に語っています。

そんな経験を経て、1978年には人類初の無酸素単独でナンガ・パルバット頂上に達しました。1970年の悪夢を払拭し、精神的にも勝利するための登山でした。
「自分のアルピニストとしての生涯の最も大きな飛躍を敢行することができた」(「生きた 還った」)と語っています。


《写真:78年ナンガ・パルバットのディアミール壁から “ディアミール”とはバルティ語で“山の王”と言う意味》
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メスナーが山で体験したことをそのまま理解はできませんが、メスナーの登山は、9割までが技術で、あとの1割は、どうしても死を意識し、死に直面してゆく人間の魔性であるように思えます。その魔性がどう昇華するかで、その行為の意味が決まってしまうのでしょう。

ここでいう魔性というものは、技術のように普遍化して普及しがたいもの、言いかえれば人に教えてもらえるような類の物ではなく、ちまちました合理精神に基づいて「そんなことせずに安全に生きればいいじゃないか」という自我の反発を抑え、死に対する芳醇なロマンティシズムを成立させねばなりません。その気分をもって自分を包み、技術を包み、また登山の歴史そのものをも包み、最後に、熔けた自我を再結晶させて宝石化する以外にない。メスナーの山は、そういう壮大な背景のあげくに、超人的な行為として滴ったものなのでしょう。

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メスナーが山での臨死体験や絶頂体験(ピーク体験)を語るとき、その言葉は宗教的にならざるをえません。それがまた数多くの批判を招く原因ともなります。メスナーを自己顕示欲と商業主義と神秘趣味の融合とする評価も根強いものがあります。メスナー自身体験を語る時、"神"とか"宇宙"という言葉を持ち出したくなくても、合理的な言葉で説明しきれない部分についてはそれを一種の比喩として語るしかないのでしょう。「あなたは神でも宇宙でもないのに、どうして神や宇宙の意思が分かるのか?」メスナーがそんな批判を受けるとき、私は荘子と恵子の会話を思い出します。

「荘子(ソウジ)」の第17編「秋水」のなかで、荘子(ソウシ)が橋上から魚の群れを見て、『ごらんよ、魚がおよいでいる。魚にとっておよぐことが楽しみというものだ。』とつぶやくくだりがあります。同行していた友人の恵子(ケイシ)が反論して『君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずないじゃないか。』と言います。恵子は博識かつ議論好きで、言うことは常に理路整然としており、魚でもない荘子に魚の楽しみがわかるはずがない、とする。これに対し、荘子は別次元から問題を展開して『だから橋上から見たとき、私には魚の楽しみがわかったのだ』と言います。

「あなたは神ではないのに、どうして神の意思が分かるのか?」

「私はもちろん神ではない、だからあの山の上で、神の意思が分かったのだ。」

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《写真:山から 極地へ 砂漠へ 》
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あのワルテル=ボナッティが「偉大にして古典的な山登りの若き最後の希望」とよんだメスナーは、8,000m峰全山登頂の後で本を書きました。そのタイトルは『登った』ではなく『生きた、還った』でした。その後ボナッティと同じように水平の冒険へと転向し、南極大陸の徒歩横断とか、最近ではゴビ砂漠にも行ったそうです。2005年には、ナンガで亡くなった弟ギュンター=メスナーの遺体が発見されたというので、パキスタンで記者会見(メスナーの横には私もお世話になった旧友ナジール=サビール氏が座っていました)をしていましたね。まだまだ元気に活動しておられるようなので、早速ゴビ砂漠での記録『Gobi』を買おうと思います。

《写真:最近のメスナー先生》
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