イェティ山崎日記
山岳プロガイド山崎の日記、登山報告 等
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死刑制度考察メモ −その1−
Death Penalty World Map


10日間の集中講義が終わった。主要な内容は金融関連法だったが、死刑制度についての講義が2日間あり、いろいろ考えさせられる内容であった。

以下は、今後曖昧な態度では済まされないであろうその制度についての考察を始めるに当たってのメモ。



【問題提起】

この制度について考えるきっかけとなる書物がいくつかある。ドストエフスキーの『死の家の記録』をそれに揚げる人も多い。私の場合は20年も前に読んだ『オーウェル評論集』の一編、『絞首刑』という短編がそうだった。

(以下紹介文より・・・) インドの帝国警察の警官としてビルマに勤務していたオーウェルは、ひとりのインド人が絞首刑にかけられる場面に立ち会う。絞首台に向かって歩いた男が、水溜りに近づくとふと歩みをそらして足が汚れるのを避けた。その瞬間、オーウェルの心に小さな衝撃が走る。すぐ命が絶たれるのに「生への愛おしみ」を保つ死刑囚。その姿に植民地支配者と現地住民の壁を越えて、同じ人間であることを了解する。

この制度の行き着く先の限界状況で、人間の尊厳というものが、殺す側と殺される側のそれぞれの論理を超えて、そっと現れるのは何故だろうか?



【思考上の制約】

思考の前提として、いくつかの制約を設けようと思う。

(1)宗教的哲学的思考の排除

哲学を排除する、ということ自体が一つの哲学でもあるので、これは一つの論理矛盾であるが・・・
生と死は境目のない運動であり(私にはこの考え方が今のところ一番しっくりくる)、そしてその運動自体が生死の(つまり存在の)本質ならば、死刑制度は意味を成さないだろう。したがって意味のない制度は廃止するべきだ、という思考は、元も子もなくなってしまうのでボツ。

(2)冤罪を理由とすることの排除

冤罪によって、間違って刑を執行される犠牲者を生まないために、死刑制度そのものを廃止するべきだ、という理由付けは、その効果を明確にできる点で実際的で、きっぱりとしてはいるが所詮は逃げの議論なのでボツ。何故そうするのかという論点を、実に効果的に移動している。
このように好ましい原則が先にあって、その方向へ論点と解釈を修正してゆくというパターンを使わない。

(3)社会政策論的なアプローチと一線を画する

いわゆる応報刑的な考え方を含め、社会生活上の所属者相互の了解を基礎に、なおかつ『法の支配』によって専断的な「人の支配」を排斥し、国家権力が正しい法に拘束されるとする原理を基礎に決定されたことだから・・・、という考え方があるが、それはそれとして認めつつもこのアプローチとは一線を隔する。『法』に基づいて『人』を殺すことの正当性は認められるのは理論のことであって、その理論はやはりどこまで言っても理論でありフィクションである。

死刑制度と犯罪数との関係を論ずる統計論も同様。統計とは事実の数量であるが、その解析や解釈は『説』であり、やはりフィクションの一つの表現であろう。社会契約や『法』も言い切ってしまえば便宜上のフィクションであると言うこともできる。しかし『人』の生命はフィクションではない。

(4)自己陶酔の排除

この制度の問題は、たとえそれが無意識(善意)のものだとしても、自己装飾に使うには罪が深い。テレビ討論などで見かけるような、死刑是非論を論ずる(問題として意識している)自分自身を好むゆえの議論に落ちない。



【比較衡量の試み】

上記(1)〜(4)の思考上の制約を設けた上で、いかなる思考が可能だろうか?

この点、死刑制度に直面する関係者に具体的に、属人的に何が起こっているか?を考え、比較衡量してみたい。

加害者には何が起こっているのか?
被害者側には何が起こっているのか?
我々はそれをいかに評価するべきか?
双方の現象を比較衡量することは可能だろうか?
そもそも比較して良いものだろうか?という問題も含めて、

今は答えを想定しないままで出発しよう。


北アルプス大日岳の事故と事件 を読んで (登山行為と刑事責任-1-事例検証1)
登山行為と刑事責任 -1- 事例検証 1

後述の事故の場合、故意が無いことには異論がないと思われる。では、過失があるといえるか?過失を構成する内容を注意義務違反と考え、その注意義務の本質を予見可能性と結果回避可能性を前提とする結果予見義務及び結果回避義務とする(新過失論)ことから問題となる。



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2000年3月5日、文部省(当時)登山研修所主催の大学山岳部リーダー冬山研修会の研修中、大日岳山頂付近で巨大な雪庇が崩壊し11名が転落。研修生の学生2名が雪崩に流されて行方不明となり、その後の捜索により5月と7月に遺体となって発見された。

2000年4月、事故原因を明らかにし、再発防止のための方策を探るため、雪氷学、測量学、登山など各方面の専門家の力を結集して「事故調査委員会」が設置され、2001年2月に報告書『北アルプス大日岳遭難事故調査報告書』が発表された。

2002年6月、所轄署である富山県警上市署は研修会の講師10名、所長、専門職に対して事情聴取を実施。そして、主任講師であった山本一夫氏、死亡した2名の担当講師の高村真司氏は同年11月に業務上過失致死罪容疑で富山地方検察庁に書類送検された。



結果的に、刑事裁判では「不起訴」、民事裁判では1億6700万で「和解」になった遭難事故(事件)で、前記報告書は「被疑者」となった2人の登山家と支援する人々の記録ですが・・・

私には、登山行為の根底にある「自己責任」や「危険に対する覚悟」といった登山者の主観(価値観)から出発して「偶然に起こった事実の意味」を考えたい精神と、刑事事件として山岳遭難に司法が介入する場合の当然の方法として事実関係の中での「過失責任の所在」を確定したい方法論とのぶつかり合いと思えました。

「事実の意味を考えたい精神」と「事実を確定したい方法論」との摩擦が生まれるわけですが、結論的には、司法の場では「事実を確定したい方法論」を採用するべきであり、また同時に司法がある一定の結論を確定したからといって、それが事故の本質的意味を説明するものではないことを覚えておかなければなりません。



私自身も、現場の登山家として、やはり事故の「偶然に起こった事実の意味」に重点をおいて主観的に考えるでしょう。したがって、考える要素は客観的事実のみとはなりません。

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【大日岳山頂に大きく発達した雪庇】

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【北アルプス大日岳遭難事故調査報告書
(H13年2月・北アルプス大日岳遭難事故調査委員会)より】

大日岳周辺の地形で風下側に張り出した吹き溜まりと雪庇付近を引率して登る場合、登山では稜線から庇のように張り出した雪庇は慎重に扱いますが、山稜から風下側に堆積した雪の吹き溜まりは安定したものと捉えることが多いので、実際25〜30mであった雪庇(吹き溜まり+庇部分)を、庇部分(10m程度)のみ危険と捉えたと思います。それに加えて、現場での天候、寒気、視界、風速、疲労度、パートナーの状態、自分自身の心理など、これらを総合して実感するように分析して、初めてこの事故で偶然に起こったことが私にとっての意味を持ちます。

もっとも、このように主観的な意味を求める精神には、事故の原因となった事実の因果関係を軽視してしまう危険性を孕んでいて、客観的に考えられる事まで主観によって硬直させてしまうこともあるので、その意味は、私だけに意味のあるものでしかありません。



こうした考え方から、もしこの事故の原因が講師の判断ミスと言えるかと聞かれれば、崩壊したのは庇の形状に張り出した所謂「雪庇」ではなく、その根元の吹き溜まり部分から先の崩落であって、普通は安定している吹き溜まり部分に乗ったことは「判断ミスではない。崩落は偶然であり、講師の注意義務違反はない。」と考えます。ここでまた私は「偶然」という言葉を使います。

登山においては「偶然」というのは理解可能なものであって、登山者は山での偶然の出来事を受入れることが出来るし、かえってその「偶然」そのものに登山という行為の部分的本質を感受するのが本物の登山家とも思えます。しかしながら司法では、「偶然」にも何らかの因果関係が求められます。法や裁判は「偶然」を「偶然」のままでは扱うことが出来ないからであって、これはこれで罪刑法定主義と適正手続きの点で正しい考え方といえると思います。



そうした思想の違いを際立たせる部分がありました・・・

「わたしは日頃、登山中の事故に『不可抗力はない』。事故はすべて自分たちのミスによって、『起こるべくして、起こるものだ』と言い続けてきました。山に登るときはその気持ちをもちつづけて来ました。今回の事故は私のミスによるものだと思っています。ご遺族の皆々様に、この場をお借りして、あらためて深くお詫び申し上げます」
事故報告会の席上で山本一夫氏のこの発言に文科省は激怒したわけですが、むしろこれは山本一夫氏という登山家のごく自然な言葉で、人としての資質、その人柄が端的に現われていると思います。そして、こういう人を仲間と思いたいと感じます。

これに対して、被疑者側弁護士三野氏は指摘します・・・「あの時ああいうことは考えられなかったとか、こういう事も出来たのではないかと、1人の登山家として事故の真相に迫ることは」「事件=裁判では自分の過失を認めるのだなということになり」「つっこまれてしまいます」・・・「なぜ、どのように事故が起きたのか、今後どうすればいいのかを徹底的に議論できるのは」「裁判ではない」・・・



登山としての真相究明と、手続きとしての司法捜査は、両立しないのでしょうか?確かに司法の場では両立しません。しかし、考えてみると、過去の事故を清算するために「事実を確定したい方法論」と、事故から学んだことを未来に活かすために「事実の意味を考えたい精神」とは、それぞれの場で双方が実践されることにより活かされます。

司法手続きは終わりました。我々には、それぞれの立場でこの事故の意味を考えるときが来ています。この本は「山岳事故における法的責任」、「大日岳遭難事故に関わる雪庇の形成と破壊に関する考察」、「大日岳の巨大雪庇」などの分析によって、考える材料を必要なだけ与えてくれます。さらに十分な材料を求めるには、我々は山に戻らなければなりません。



それにしても・・・山岳会や登山グループでリーダーがメンバーを引率する場合でも、もし事故が起こった場合はリーダーとしての「注意義務違反」を問われ、場合によっては「業務上過失致死傷害罪」で告発される可能性を、我々は認識するべき段階です。「業務上過失致死傷害罪」は親告罪(告訴がなければ事件にならない)ではないので、遺族や被害者の告発・告訴がなくても立件される可能性があります。山岳会や登山グループではこの点のリスクマネジメントについても、登山準備段階から現場での危険性や判断基準を文書化し周知するなどの対応が必要でしょう。

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