岡山大学山岳会・岡山大学山岳部

ネパール西部・ダウラギリ地域の学校と村落支援・交流活動

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トムラウシ大量遭難死について(山崎)

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昨日このニュースを聞いて、この会社がとうとうやってしまったか・・・という感想。おそらくは疲労凍死で亡くなった方々は、本当に気の毒で残念だ。

しかし、やはり過去の事故が教訓として活かされていないことがもっと残念だし、他の登山ツアー主催会社も含めて、何故このことを真剣に考えないのか、理解できない。人の命が大切だということが分からないのか?

『羊蹄山中高年ツアー登山の遭難事故分析』
『ある遭難裁判判決に寄せて』

予見可能な危険に対する注意義務違反で業務上過失致死という明確な判例(地裁)があるのだから、登山ツアーを催行する旅行会社、参加するお客も現場スタッフも、もっとしっかり考えるべきだ。未だに他人事のように考えている会社が多いのではないだろうか?



今回の事故について、未だ確実なデータは少ないが、遭難のおおよその状況とこの山の実状から考えると、この登山の企画運営をしている側(会社と山岳ガイド)の判断ミスが影響しているようだ。参加者(お客さん)の自己責任という議論もあるが、それは的外れだ。理想としては参加者も自分の責任で登山する、自分で判断するという意識は大切だが、山岳ガイドとは山頂まで連れて登り、安全に下山させることを伝統的に職責としている。お客さんから請け負ったならば、たとえ歩けない人でも、その場合に相応しい工夫をして、山頂まで案内して無事安全に連れて帰る職業だ。この場合、歩けない人が山の頂上に行くのは無謀だ、という抑止理由はどこにも発生し得ない。



ガイド登山としての望ましい形式ではない

『連れて登ってください』『では連れて登りましょう』そんな相互契約のもとで、お互いにパートナーとして登るのが本質であって、この会社のように参加者をピックアップしながら山へ向かうという感覚は、厳しいようだが、全く理解できないし間違っている。それで参加者一人一人の性格や体力を把握できるのだろうか?・・・出来ないと思える。中には特別にマークするべき参加者、特別にフォローするべき参加者も必ずいる。そこを個々に手当てして登らせる、あるいは一定の限度で帰らせるのが山岳ガイドの役割だ。その為には、お客さん一人づつを把握できる形態を持つ企画であるべきで、この会社の"寄せ集めて ほとんど知らない者同士で 一緒に登山する"(それがコスト安だから)という形式は間違っている

ここからは私の想像になるが・・・

こういう形式の場合、ちょっとした理由で、仲間であるはずのパーティーがばらばらになってしまうのではないか?今回の状況では、パーティーを分散することは自殺行為だろう。しかも無線は持っておらず(本来ガイド全員が無線免許と無線機を持つべき)、仲間や救助関係とのコミュニケーションは携帯電話・・・この辺りには、ガイドの経験を根拠に現場判断に任せている、会社側のコントロールが及ばない部分であったと言及する会社側の思惑とは別に、山の本当の恐ろしさを経験していないガイドのわきの甘さが出てしまっているのかもしれない。

遭難前の宿泊地であるヒサゴ沼非難小屋を出発したことが無謀だったという意見がこれから頻出するだろう。しかし小屋を一旦は出てみるということは間違ったことではない。小屋の中では判断できないこともある。実際に歩いてみて、そこで引き返さなかったことが最終的なミスであって、ここで突っ込んで行動不能者を出し、それでも引き返さずパーティーを少しづつバラバラに解体してゆく過程で、ガイドは自分のするべきことを、ガイドとして出来ることを、一つづつ捨ててしまった。安全を少しづつ拾い集めるというガイドの本分とは反対のことをしてしまったことは、やはり本物の経験をしていないことからくる一種のパニックなのかもしれない。

最近の登山ツアーはヒサゴ沼の避難小屋を平然と利用するが、ここはあくまで避難小屋であって営業小屋ではない。登山ツアー企画に最初から組み込む筋合いのものではないはずだ。ここになぜ避難小屋があるのかをガイドは考えなかったのだろうか?その本質をしっかり考えていれば、行動不能と判断して全員でヒサゴ沼まで引き返し、本来の"避難小屋"として使うことが出来たのかもしれない。



山岳ガイドの資質

熟練した優秀なガイドでも、厳しい山で不可抗力が多すぎた場合、お客さんもろとも遭難死してしまうことはある。それは日本でもヨーロッパアルプスでも同じ。その時1人でも多くの命を救えるかどうかは、山岳ガイドの資質(経験・体力・技術・装備準備力・説得力等など)に負うしかない。

もっとも有効なのは、決して尽きることが無いほどの体力と極限の精神状況できちんと働く感受性だ。その資質は先天的な部分が多いし、ガイド自身が個人的に、計算づくで生死の境界に迫るような登山を繰り返して取得するしかない。

山岳ガイドは普通の登山者であるべきでなく、ある意味で異常な体力と意志力を持つ人間でなければならない。その異常な資質を隠して、一般の常識人として穏やかに人交わりが出来る必要がある。
トムラウシ縦走ならば、避難小屋をあてにせず全員分のテントと食料を担いで、その上で適切なガイドも出来るのでなければ、山岳ガイドとして難しい。

以前、槍ヶ岳の山頂付近で、ルートを間違って困っている登山ツアー会社のお客さんと"認定ガイド"を、まとめてガイドして山小屋まで下した経験がある。その時の"認定ガイド"は若い小柄な女性だったが、お客さんからの無言のプレッシャーに目が泳いでいた。
大学でアウドドアサークルに入っていたという若者や、山好きで個人登山の経験もあるが煙草と酒も大好きな自称登山家のおじさんをガイド講習会に参加させ、形式的にガイドとして認定し、認定ガイドという顔写真入りネームプレートを首から下げさせ、何十人ものお客さんを案内させるような方法には疑問が残る。

安全への要素を、少しづつ、次々と寄せ集めることができる感受性。これは恐怖から発生するものだ。山で自分の死を認識した時の恐怖感。お客さんを連れてルートを一時見失う時の、こめかみにツーンとくるような焦燥と恐怖。死んでしまった人間の身体損傷の無残さを見る時の衝撃と恐怖。

その恐怖や衝撃や焦燥を身をもって知っていなければ、臆病にもなれないし、克服するための準備もできない。その準備は当然に企画段階から恐怖と共にある。今回の登山ツアーの企画には、こうした山岳ガイド本来の恐怖と臆病が反映されていないと思う。



起こってしまったことを考える

起こってしまったことの内容には、起こしてしまったことの要素が含まれている。しかし、「これが原因で事故が起こった」というようなひとつの決定的な原因の存在は稀だ。

多くの場合、些細なミスや鈍感さ、杜撰さ・・・それぞれの間違い自体は他愛のないものであって、それらの他愛のないミスが積み重なった先に、山での大量遭難死がある

端的言えば山に登ろうと思い立った時点から、少しづつ死へと方向転換しているのだ。お客さんにそのような意識はないかもしれない。しかし山岳ガイドにとっては、この意識が立脚点だ。

そのうえで、少しづつ対策を講じて、落ち穂拾いのように安全を拾い集めて、やがて「これでOK」という考えが持てるのだ。怖がることが安全。その為には自分でその恐怖に直面できる登山を潜り抜けるか、最低でも起こってしまったことを真剣に考え、忘れないことが重要だ。

『羊蹄山中高年ツアー登山の遭難事故分析』

『ある遭難裁判判決に寄せて』

心ならずも 大好きな山で 絶望と共に逝かれた方々・・・冥福を祈るですませるな





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[ 2010/05/05 00:41 ] その他もろもろ | TB(-) | CM(0)

ネパールでわしも考えた(山崎)

以前「インドでわしも考えた」というタイトルの軽めの本がありましたが、この本も今回のお題も、堀田善衛の「インドで考えたこと」が元ネタです。堀田先生は学生時代の私にとっての"知の巨人"でありました。

当時の私の"知の巨人"には、丸山眞男、それから「照葉樹林文化論」の中尾佐助もその一人でした。ここ15年ほど一緒に山岳ガイドをしているM兄は岡大生物科学研の頃なのか、中尾先生の講義を直に聞いたことがあるそうで、なんでもその講義よりも著作『栽培植物と農耕の起源』(貴重な岩波1969年の第6刷を拝借したままです・・・感謝)の方が10倍は面白いと、好悪是非定かならぬことを言っていましたな。この照葉樹林文化論からは、ナラ林文化、稲作の渡来と鉄の生産が絡みあった、『もののけ姫』の背景のような日本文化論への展開(中尾先生の理論ではありません)があって、これを語ると数時間かかるので誰かに気が向いたときに語らせて頂くとして・・・

前置きが長くなってしまいました。

今回はネパール辛口報告です。



何かというと、『観光登山という良く出来たビジネスモデルの中で、就学年齢にある子供の人権が危ういかもしれないということに、我々登山客が意識を持ったほうが良い。』 ということ。

ただし、論点は"登山"では無くて"社会"の問題であって、『観光登山』というビジネスモデルの是非論ではありません。



確かに『観光登山』についても、ハイキャンプまで食堂とキッチンとテントをシェルパメンバーが運び上げるという登山形態には本当にビックリしました。(今回のメラピークはルート状況から特殊な山なのかもしれませんが) 私の経験上、6500m級の未踏峰や8000m峰への遠征では、こんなことは考えられませんでした・・・

s-DSCN7471.jpg

外国人登山客が完全装備でゼ~ゼ~言いながら登るすぐ傍を、若いポーターたちが重い荷を背負いつつスニーカーで登ってゆく。時にはカレのベースキャンプからハイキャンプまで往復するとのこと。

完全装備の登山客と、スニーカーのポーター達・・・

私としては、心ならぬ茶番劇のような、恥ずかしいような気持ちを忘れることが終始出来ませんでしたが、シェルパもポーターも生活のために働いているのだから、『自分の考える登山は諦めて、今回は彼らの生活の糧になろう・・・』と自分に言い聞かせる必要がありました。

登山のタクティクスも全てシェルパ任せで、それはそれで『観光登山』としては良く出来た仕組みなのかもしれません。



しかし、今回少しだけ報告しておきたいのは、そうしたポーター達の中に、稀に就学年齢の子供たちがいるらしいということです(我々の隊ではありません)。

現在のネパール観光登山では、サーダー(シェルパのボス)がトレッキングツアー会社から仕事を請負い、自分の率いるグループで仕事をこなすようになっていますから、サーダーとしては出来るだけ人件費などの経費を削った方が利益になります。その結果、人件費の安い若年層を雇用することになるのでしょう。

就学年齢(日本では満15歳での3月31日まで)や児童労働の基準は、国や文化によって様々なルールがあるでしょうから、それを一概に私の感覚で否定することは出来ませんが、少なくとも私が関係する登山、トレッキングにおいては、今後、一応のチェック(今回のような場合ならトレッキングツアー会社にチェックを求めるという方法で)をした方が良いし、そういう現状に乗っかって登山をしているということに、私たちは無知でいるべきではない、と考えています。

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実は、今回出会った他隊のポーターに14歳の少年が数名混じっており、これは当人やトレッキング会社が意識していてもいなくても、国際的な常識では児童虐待となるでしょう。

教育を受けられない子供たちやその両親達には、そういう問題意識はありません。生きるのは辛いことと思うだけでしょう。そこから社会の階層が生まれ、貧富の差が生まれ、それが社会的なフラストレーションを増大し、近年のネパールがそうであったように多くの命を奪う事態に発展することもあります。

我々登山客は、無頓着に山に登るだけでなく、自分の登山がそういう悲劇につながっているかも知れないという意識を、ほんの少しだけでも持っていたいと、私は思いました。

ネパールで登山をすることは素晴らしいことですが、そこで関わる人達や子供たちの人権について、頭の中だけでも良いから、少しだけ心配りをしてみることも、決して自虐趣味ではないと思います。

『観光登山』は私的自由な行為であるし、そこには楽しさも達成感も確かにあると思いますが、その中に潜んでいる悲劇の種、つまりポーターとして働く子供たちの人権や未来について、外国人のおせっかいであろうとも、旅行者の偽善的同情であろうとも、見て見ぬ振りをせずに、現地のトレッキング会社に対して積極的に現実に具体的に発言したいと思うのです。




[ 2010/05/05 00:41 ] その他もろもろ | TB(-) | CM(0)
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