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大日岳の事故と事件(山崎)

北アルプス大日岳の事故と事件 を読んで (登山行為と刑事責任-1-事例検証1)


登山行為と刑事責任 -1- 事例検証 1

後述の事故の場合、故意が無いことには異論がないと思われる。では、過失があるといえるか?過失を構成する内容を注意義務違反と考え、その注意義務の本質を予見可能性と結果回避可能性を前提とする結果予見義務及び結果回避義務とする(新過失論)ことから問題となる。


2000年3月5日、文部省(当時)登山研修所主催の大学山岳部リーダー冬山研修会の研修中、大日岳山頂付近で巨大な雪庇が崩壊し11名が転落。研修生の学生2名が雪崩に流されて行方不明となり、その後の捜索により5月と7月に遺体となって発見された。

2000年4月、事故原因を明らかにし、再発防止のための方策を探るため、雪氷学、測量学、登山など各方面の専門家の力を結集して「事故調査委員会」が設置され、2001年2月に報告書『北アルプス大日岳遭難事故調査報告書』が発表された。

2002年6月、所轄署である富山県警上市署は研修会の講師10名、所長、専門職に対して事情聴取を実施。そして、主任講師であった山本一夫氏、死亡した2名の担当講師の高村真司氏は同年11月に業務上過失致死罪容疑で富山地方検察庁に書類送検された。



結果的に、刑事裁判では「不起訴」、民事裁判では1億6700万で「和解」になった遭難事故(事件)で、前記報告書は「被疑者」となった2人の登山家と支援する人々の記録ですが・・・

私には、登山行為の根底にある「自己責任」や「危険に対する覚悟」といった登山者の主観(価値観)から出発して「偶然に起こった事実の意味」を考えたい精神と、刑事事件として山岳遭難に司法が介入する場合の当然の方法として事実関係の中での「過失責任の所在」を確定したい方法論とのぶつかり合いと思えました。

「事実の意味を考えたい精神」と「事実を確定したい方法論」との摩擦が生まれるわけですが、結論的には、司法の場では「事実を確定したい方法論」を採用するべきであり、また同時に司法がある一定の結論を確定したからといって、それが事故の本質的意味を説明するものではないことを覚えておかなければなりません。



私自身も、現場の登山家として、やはり事故の「偶然に起こった事実の意味」に重点をおいて主観的に考えるでしょう。したがって、考える要素は客観的事実のみとはなりません。

20050424092939.jpg
【大日岳山頂に大きく発達した雪庇】

image002.jpg
【北アルプス大日岳遭難事故調査報告書
(H13年2月・北アルプス大日岳遭難事故調査委員会)より】

大日岳周辺の地形で風下側に張り出した吹き溜まりと雪庇付近を引率して登る場合、登山では稜線から庇のように張り出した雪庇は慎重に扱いますが、山稜から風下側に堆積した雪の吹き溜まりは安定したものと捉えることが多いので、実際25~30mであった雪庇(吹き溜まり+庇部分)を、庇部分(10m程度)のみ危険と捉えたと思います。それに加えて、現場での天候、寒気、視界、風速、疲労度、パートナーの状態、自分自身の心理など、これらを総合して実感するように分析して、初めてこの事故で偶然に起こったことが私にとっての意味を持ちます。

もっとも、このように主観的な意味を求める精神には、事故の原因となった事実の因果関係を軽視してしまう危険性を孕んでいて、客観的に考えられる事まで主観によって硬直させてしまうこともあるので、その意味は、私だけに意味のあるものでしかありません。



こうした考え方から、もしこの事故の原因が講師の判断ミスと言えるかと聞かれれば、崩壊したのは庇の形状に張り出した所謂「雪庇」ではなく、その根元の吹き溜まり部分から先の崩落であって、普通は安定している吹き溜まり部分に乗ったことは「判断ミスではない。崩落は偶然であり、講師の注意義務違反はない。」と考えます。ここでまた私は「偶然」という言葉を使います。

登山においては「偶然」というのは理解可能なものであって、登山者は山での偶然の出来事を受入れることが出来るし、かえってその「偶然」そのものに登山という行為の部分的本質を感受するのが本物の登山家とも思えます。しかしながら司法では、「偶然」にも何らかの因果関係が求められます。法や裁判は「偶然」を「偶然」のままでは扱うことが出来ないからであって、これはこれで罪刑法定主義と適正手続きの点で正しい考え方といえると思います。



そうした思想の違いを際立たせる部分がありました・・・

「わたしは日頃、登山中の事故に『不可抗力はない』。事故はすべて自分たちのミスによって、『起こるべくして、起こるものだ』と言い続けてきました。山に登るときはその気持ちをもちつづけて来ました。今回の事故は私のミスによるものだと思っています。ご遺族の皆々様に、この場をお借りして、あらためて深くお詫び申し上げます」
事故報告会の席上で山本一夫氏のこの発言に文科省は激怒したわけですが、むしろこれは山本一夫氏という登山家のごく自然な言葉で、人としての資質、その人柄が端的に現われていると思います。そして、こういう人を仲間と思いたいと感じます。

これに対して、被疑者側弁護士三野氏は指摘します・・・「あの時ああいうことは考えられなかったとか、こういう事も出来たのではないかと、1人の登山家として事故の真相に迫ることは」「事件=裁判では自分の過失を認めるのだなということになり」「つっこまれてしまいます」・・・「なぜ、どのように事故が起きたのか、今後どうすればいいのかを徹底的に議論できるのは」「裁判ではない」・・・



登山としての真相究明と、手続きとしての司法捜査は、両立しないのでしょうか?確かに司法の場では両立しません。しかし、考えてみると、過去の事故を清算するために「事実を確定したい方法論」と、事故から学んだことを未来に活かすために「事実の意味を考えたい精神」とは、それぞれの場で双方が実践されることにより活かされます。

司法手続きは終わりました。我々には、それぞれの立場でこの事故の意味を考えるときが来ています。この本は「山岳事故における法的責任」、「大日岳遭難事故に関わる雪庇の形成と破壊に関する考察」、「大日岳の巨大雪庇」などの分析によって、考える材料を必要なだけ与えてくれます。さらに十分な材料を求めるには、我々は山に戻らなければなりません。



それにしても・・・山岳会や登山グループでリーダーがメンバーを引率する場合でも、もし事故が起こった場合はリーダーとしての「注意義務違反」を問われ、場合によっては「業務上過失致死傷害罪」で告発される可能性を、我々は認識するべき段階です。「業務上過失致死傷害罪」は親告罪(告訴がなければ事件にならない)ではないので、遺族や被害者の告発・告訴がなくても立件される可能性があります。山岳会や登山グループではこの点のリスクマネジメントについても、登山準備段階から現場での危険性や判断基準を文書化し周知するなどの対応が必要でしょう。

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[ 2010/09/15 08:51 ] その他もろもろ | TB(-) | CM(0)
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